#39 一目惚れの暗躍 サンプル

#39

本作は『一目惚れの条件(再録版)』に全文収録されています。

本文サンプル

 うっすらと瞳を開けると、焦点の定まらない視界で世界がぼやけて見える。決して視力が悪いわけではない。疲労がピークに達したのち、抱えている問題を片付け、緊張感から解放された翌朝には頻繁に見られる症状だった。
 ただ、ぼやけた世界に映る天井は、まだはっきりと覚醒しきっていない頭でも認識できるぐらいまったく見慣れないもの。
 あくびをかみ殺し、首をかしげながら何度か瞬きを繰り返した。続けて、まだ眠い目をこすると少しずつ脳が覚醒してくる。掛け布団をめくりながらゆっくり身体を起こして室内を見渡した。障子の向こうからは弱々しい光が室内に射しこんでいることを確認できる。しかしまだ、陽は昇りはじめたばかりのようだ。
 枕元に置いてあったはずの携帯電話に手を伸ばす。
 着信も新着メールもないものとばかり思っていたが、細かく点滅を繰り返す青色のLEDがメッセージが届いていることをつげている。慌てて二つ折りの携帯電話を開いて、高速で親指を動かし新着メッセージを画面に表示させた。身体は自然と前のめりぎみだ。
 この携帯に、連絡をくれる人間は限られている。こんな時間にメールを送ってくるなんて一人しか思いつかない。
 事件は昨日解決したはずなのにこんな時間に連絡が届いているなんて、何かあったとしか考えられなかった。
 もしかしたら、もっと夜中、自分が完全に眠りに落ちてしまっているときにきていたかもしれない。
 昨日、深い眠りにつけるようになるまでにさんざん後悔してきたのだ。もう、これ以上の後悔はしたくなかった。
 祈るような気持ちで画面に目を走らせると。
「……あ……」
 震える手を叱咤しながら何度もなんどもメッセージを確認して、きちんと脳が理解できたとき、全身の力が抜ける。
「はぁー……まったく。貴方がなにやっても、心臓に悪い」
 どっと疲れが出て、すっかり起き上がった身体を再び布団の中に沈ませたくなった。しかし、今から二度寝をして、この家の人間に起こされたくはない。
 改めて、気持ちを落ち着かせてから携帯電話を見つめると、たまらない愛しさがあふれてきた。なにが書いてあるわけでもない。ただただ、件名に朝の挨拶の言葉が書かれているだけで、本文にはなにも書かれていなかった。きっと、なにか書こうと思って試行錯誤したのだが、途中で考えるのが面倒くさくなってとりあえずこれだけ送ってきたのだろう。今頃、送ったことを後悔しているか、それとも返事を心待ちにしてくれているか。
 しかし、こんな時間にメールが送られてきているということは、きちんと眠れていないのではないかと心配になる。
 もともと、彼は眠りが深くない。
 去年のクリスマスにそれを実感させられている。
 体調不良で青白くなっている顔色が寒そうで、抱きしめて暖めてあげたいと思った。しかし、しっかりと眠りに落ちているはずの彼のベッドにそっと腰掛けただけで、身体がはっきりと強張った。一瞬、起してしまったかとあせったのだが目覚めたわけではなく、規則正しい呼吸は寝息そのもの。しかし、眉間によった深いシワが、意識が覚醒しかけていることを伝えていた。
 眠っている間にも研ぎ澄ましている警戒心が、彼の全身を包み込んでいて痛々しく感じてしまったほどだ。
 今回のこの事件が落ち着くことで、少しでも彼に安らかな睡眠時間が訪れることを願っていたけれど、さすがに昨日の今日では難しかったらしい。
 当然といわれれば、当然か。
 彼は何年も、何十年もずっと、この生活を当たり前として生きてきたのだから、早々簡単に変わるものではないだろう。
 けれど、可及的速やかに、変えてしまいたいと強く思う。
 そのためにもまずは。
「おはようございます。何時から起きてらっしゃるんですか、と」
 今度こそ彼との約束を守るためにも、迅速に返事をしなければ。
 ここ一ヶ月、なにひとつ約束を守れなかった身が今更守ったところで遅いかもしれないけれど、まだ手遅れではないことはこのメールが告げてくれている。勇気を持って、届いた言葉の五倍ぐらい増量してメッセージを送信した。

 人生は、思いどおりになんていかない。
 新井悠人はこれまでの三十年弱の人生経験で常々感じさせられているが、なるべく思いどおりにするための努力はまったく苦にならなかった。むしろ、定められている運命とやらをねじ曲げるため、策を講じるのがとても好きだ。そして自らが講じた策を持って結果を残したときに、最上の快楽を味わえるものと考えていた。
 しかし、このところ少しだけその考えが薄れてきている。
 どんな策を講じてもかなわない相手が現れた。その人に振り回されることこそ最上の快楽であるとつくづく感じている。思い通りにならないことが当たり前で、それを覆して思い通りにすることも当たり前だったけれど、今は違う。
 桐沢奏という唯一無二の存在に振り回され、彼のことを深く考えている時間が何よりも楽しくてしかたがない。
 そして彼の隣にいる瞬間にこの胸に湧きおこる暖かな感情が、幸せであると教えてもらった。

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