bl novel #04

北の海で恋が繋がる 01

 仮想空間でなら違う人間になれる。
 現実の自分がせめて一○分の一でも仮想空間のように振る舞えたら、少しは毎日が違ったのではないかとよく思う。
『上司にへんな因縁つけられたー。しかもなんか、異動だって(泣)理不尽なこと言われたときって、みんなどうやって耐えてる? それともキレる?』
 でも、それができないからこそ、こうして仮想空間で理想の自分を演じているのかもしれない。そう思うと、自分はとんでもなく優秀な役者なんじゃないか、と思って鼻で笑ってしまった。
 そんなわけがあるか。
 自分へのツッコミが脳裏で鋭く入ってきた。上司への対応もコレぐらい機敏にできたら、もっとはっきりしろとか、うざいとか、お前がいるだけで辛気臭くなるとか、言われないんだろうな。
「……風呂、入ってこよう……」
 風呂から上がってここに戻ってきたら、それこそシャワーで浴びるほどのメッセージが届いているに違いない。
 だって自分は仮想空間では超人気者のイナ=B風邪を引いたと言えば顔も知らない大勢の人からお見舞いの言葉をもらい、これがおいしかったと報告すると次の日には多くの人が食べてみたと報告をくれる、若者にそれなりの影響力のある存在。
 しかし現実は、自他共に認める冴えないコンピュータオタクの橋本稲都。高校時代から仮想空間――つまりインターネットの世界にはまりこんで、そろそろ十年が経とうとしている。決して自宅警備員ではない。実家から会社に通っているけれど、ちゃんと働いている。でも正直、在宅の仕事があるのなら今すぐにでも飛びつきたいと日々思っていた。
 パソコンの電源はそのままに、バスタオルと着替えを持って脱衣所に入り、寝巻き用のTシャツを脱ぐと、真っ白で筋肉のきの字もついていないひょろひょろな腕が露わになった。足も同様で、社員旅行でたまたま裸を見られたときに、その足歩けるのか? と同僚に鼻で笑われたほど足首が細い。全体的なバランスを見ると確かに異様だし、自分でも気になっている箇所ではあった。
 しかし、多く食べても太らない体質だし、だからと言ってジムなどへ通おうとまではアクティブな思考にならない。
 専門学校へ通っているときは誰も近寄ってこなかったが、就職活動で印象をよくするために切ってからは髪は見栄えよくを心がけている。奇抜な色にはできないけれど、重い印象を受けない程度のナチュラルブラウンだ。全て美容師にお任せだが、今は耳が隠れるぐらいの長さで毛先にシャギーを軽く入れて遊ばせている。服装は仕事は毎日スーツなので問題ないが、私服に自信はない。
 全て服を脱ぎ終えて浴室に入る寸前、洗面台の鏡に映った自分の顔をじっと見て、大きくため息を漏らした。
「この顔見て、何がピンと来たんだ……? いみふだし」
 ネット上のイナ≠フファンに薦められた、フレームに加工が施してある黒縁メガネを外すとぼやけて何も見えなくなる。
 本当に、今日会社で起こったことは不思議以外のなにものでもなかった。
 目が大きいわけでもなく、鼻立ちがはっきりしているわけでもない。口元に何か印象な点があるかと言われればそうでもないし、ただただ肌は白いが、それ以外に特に何の特徴もない顔をした稲都をじっと見て、本社のお偉いさんらしき人が言ったのだ。
「本社で人手が足りないから、来週から俺の部下になれ」
 まるで自分と真逆じゃないかと思うような、男らしい体躯。がっちりした肩に広い背中は海外ブランドのスーツを着こなし、甘さの中にどこかスパイシーさを漂わせる香水が垂れ流されたフェロモンをより引き立てているようだった。女性が浮き足立って黄色い声を上げていたのもよくわかる。わかるけれど、なぜその流し目が自分に向けられたのかさっぱりわからない。
「え? あ、の……え?」
「住む場所も必要最低限の家具もこちらで用意する。とりあえずマンスリーマンションに入ってもらって、継続してできそうならゆっくり引っ越しも考えればいい。ホテル暮らしよりはいいだろう」
「あ、はぁ……」
 そんな身体つきを裏切らない容姿、だったのだろうが稲都はあまりはっきりと覚えていなかった。なぜか。それは威厳を感じさせる高圧的な声に負けて、終始うつむいていてしまい、はっきりとそのお偉いさんの顔を見なかったからだ。
 しかし、一瞬だけ顔を上げた瞬間があった。
「恋人はいるか?」
「は?」
 突拍子もないこの質問のときに、視線が交わったのだが、強すぎる眼差しが怖くてすぐにまたうつむいてしまったのだ。
「もしいるなら会えなくなるのを覚悟しろ。最低でもひと月はこちらに帰って来られないからな……つれてきてもいいが」
「す、いません、が、あの、なんの話、でしょうか……」
 ようやく搾り出せた質問はフロア全体を凍らせて、慌てて支部長がフォローに入る。
「は、橋本君! 何を聞いていたんだっ! すみません、青柳部長。彼はちょっとぼーっとしているところがあって、人間とのコミュニケーション能力が欠落しておりまして」
「それは養えばいいからかまわない。俺が教えてやる。少し早口に説明しすぎたな。つまりだ、あー……君、名前は?」
「橋本、稲都です」
「イナト? ふーん、珍しいな……まあいい。今度はちゃんとよく聞くんだぞ、橋本」
 お偉いさん、青柳部長の説明でようやく理解できたのは、本社へと転勤が命じられたことだった。
 その理由が、顔見てピンときたから。
 稲都にはまったくもって意味がわからず、呆然とするしかなかった。浮き足立っていた他の者たちは皆、落胆し、同時に稲都が何かしら媚を売ったんだと選ばれなかった理由をこじつけた。
「はぁ……」
 それが、今日の昼間の話。
 稲都が勤めるメールデュノル株式会社は北海道に本社を置き、主に今流行りの「わけあり」食料品の目玉に、北海道ならではの商品をネットショップで扱っている。東京支社には核であるネットショップの管理運営をする広報部が置かれており、稲都はショッピングカートのプログラム開発やウェブデザインに携わっている。
 ネット事情に詳しい稲都にとってこれ以上にない面白い仕事だが、一番やりたかった週代わりの特集ページは社内でも花形で、期日が迫っていたのに担当者がやりきれなかった二度ほどしか担当したことがない。しかしその二度が、ニーズにぴったりと合わせたのはもちろん、特集ページのセンスのよさから爆発的に売り上げを伸ばした輝かしい記録として今も残っている。残念ながら、それは稲都の功績ではなく、その週担当だった上司の功績になってしまったのだが利用者に認められたのだからいいと思っていた。
 だから、本社に告げ口したことなど一度もなかったのだが、今日は社内の空気が全てそれを疑っているものだった。
 あの二度の功績は上司のもので、自分の記録としては何も残っていないし、告げ口もしていない。そう、ぽつりぽつりと反論してみたものの誰も信じてはくれなかった。
「……来週から、北海道、か」
 急な出張だと親には伝えてある。一ヶ月したら帰ってくるとも伝えた。なんせ今日きていた青柳部長は営業部の部長だ。弱冠三十歳でありながら、ダントツの営業成績を誇り有無を言わせぬ昇格だったと社内で有名になっている、らしい。そんな彼が部下になれと言ったということは、つまり営業をやれということに違いない。
「できるわけないし」
 土日で必要最低限の荷物をまとめて、月曜日には北の大地へ降り立つことになっている。とんとん拍子で勝手に話が決まってしまって、社員たちは、稲都がいつ断るか待っていたに違いないが、とても断らせてもらえるような空気ではなかった。
 青柳も人選ミスだったと一週間も経たずに気づくだろう。もしかしたら、一ヶ月なんてかからずにさっさと帰ってこられるかもしれない。いや、むしろ。
「クビ、かもな」
 髪の毛をがしがし洗いながら憂鬱な気分に包まれた稲都は、開放的なもう一人の自分になるためにさっさと風呂から上がり、パソコンの前に腰を下ろしたのだった。