bl novel #06

さくら、さくら 01

 もしも……。


 もしも春に桜が咲かなければ――


 こんなにも、心動かされることはないのに。


 ―― 心ざわめくことは、ないのに ――




 今日はかれこれ、何時間ほど歩き続けただろうか。最後に人を見たのがいつだったのかももう、忘れてしまった。もしかしたらあれは二日前、三日前のことだったかもしれない。
 風と雲の談笑。
 小鳥のさえずり。
 木々の囁き。
 その全てが人間の足音を歓迎しているようにも、その真逆にも感じる。足音はたった一つだけ。もしも多くが響いていたのなら、それらは追い返すように強まったかもしれないし、逆に心を閉ざして静寂だけが辺りを支配していたかも知れない。
 漆黒の髪を一つに束ね、精悍な顔立ちに人懐っこい笑顔を備えた青年は、それら全てに話しかけるように声を上げていた。
「ここはよいところだな。こんなところに鬼がおるなんてまったく思えん」
 腰に脇差、背中に大降りの刀。一見すれば武器以外は身軽な服装ではあるものの、必要最低限の守りを兼ねている最新の鎧だ。青年が都の武士であることを物語っている。
 都の武士が何用か。
 最後に訪れた村では、この先に暮らすものなど変わり者しかいないし、「人食い鬼」が出ると噂がある辺境の地だから引き返すように忠告を受けた。それでも青年は引き返さずに足を進め、ここまでやってきた。渓流が近いのだろうか、水の流れる音に心地よさを感じで喉がなる。そういえば、一度も休憩せずにやってきたから水も口にしてない。喉も渇いている。
 林に入ると程なくして森に変わり、木漏れ日が心地よさに伸びをした。音の誘いにしたがって足を進めた先に現れた小さな川。射し込む光できらきら光っていて、彼に話かけているようにさえ感じた。
「失礼する。ちょっとだけわけてくれ」
 一口分を手ですくって運ぶと、冷えた水が喉を潤してくれる。生き返った。腰の竹筒にも水を汲み、青年は川から離れて森の深みへ入っていく。導があるわけでも、以前に来たことがあるわけでもない。しかし、目的ははっきりしていた。重要な目的を果たすために、こんな辺境までやってきた青年の目に小さな小屋が飛び込んでくる。
 木を切り開き広場になっている一角。その辺りには明らかに人が暮らしている痕跡が見られた。熾した火をそのままに、どこかへでかけてしまったのだろうか。今は消えかけて小さな煙だけが上がっている。
 青年はきょろきょろと辺りに視線を巡らせて、人の気配を探ってみる。残念ながら近くに物音はしない。しかし、一箇所草が踏み固められた場所を見つけた。ここを辿れば、人に逢えるかもしれない。青年は自然と表情を引き締めながら、そこを進んだ。
 すると、その先には――

「ぁっ!」

 満開の桜がこれでもかというほど立ち並び、風に吹かれて花びらを躍らせている。
 まさに、桜吹雪。
 息を呑むほどの絶景に呆然と立ち尽くす青年は、その景色に意識を溶け込ませた。
 そんな彼を現実に引き戻したのは、詠うような透き通った声。
「珍しい……客か」
「え?」
 突然話しかけられて、瞬時にそちらへ視線を送る青年の目に、この桜吹雪よりも衝撃的な絵が描かれた。
 陶磁器のような白い肌に、切れ長の目。そこにかかる前髪は陽の光に一瞬透けて見えて、目を瞠った。腰まで伸びた髪は桜吹雪と一緒に風に遊ばせている。
 男、だと思う。
 声は低かったし、顔つきも身体つきも男性的だ。しかし、青年が今まで目にしたどんな女性よりも美しかった。
 驚きのあまり黙っていたのは青年だけでなく、美しい男も同じだった。まじまじとこちらを見つめてく。しばし、時が止まったようにそのまま二人は見つめ合っていた。
 そして二人とも同時に、こんなことを口にした。
「人、か?」
「人間で、間違いないか?」
 同じ質問だった。
 あまりに人間離れしていたから、思わず出てしまった質問だったが、自分も同じ質問をされるとは思いもしなかった。余計に目をぱちぱちしてしまう。
 そんな青年に、ふっと口元に笑みを浮かべた男はこう説明を付け加えた。
「ああ、何も汝が物の怪に見えたわけではない。こんな辺境の地へ来る人間など滅多にいないから、確認を取ったまでだ」
「そうであったか。我はどこからどうみても人間に見えると思うておったから、そのようなことを言われたことがない。しかし、お主は美しいな。驚いた」
 青年は思ったことをそのまま口にする。それに男は目を丸くするが、すぐにまた先ほどのような笑みを浮かべた。喉の奥で、くっくっくっと笑っている。
「なっ、我は何かおかしなことを申したか!」
「いや、可笑しな人間がきたと思ってな。馬鹿にしたわけじゃない」
 そういいながらも、その視線がどこかこちらを馬鹿にしている気がして、眉間にシワが寄る。
 切り株に腰を下ろしていた男は立ち上がり、青年のすぐ横にやってくると
「久しぶりの客だ。手厚くもてなしてやるから、来い」
 突然腕を掴んで引きずるように歩き出してしまった。
 慌てて体制を立て直し、掴まれた腕を振り払うと「何をするっ」と抗議する。しかし、肩を震わせるばかりで聞いていないようだ。
 なぜ、逢って間もない男にこんな扱いを受けなければならない。
 理不尽さに頬が引きつりそうになったが、この辺りに暮らしている男は青年にとって重要な情報源だった。よい機会なのだと前向きに考えて、男の後を黙ってついていくことにした。