E.F.K series

ペットな恋人? 01

「え? まじっすか! じゃあ、今すぐに見に行きます! はい! よろしくお願いします! それじゃ」
 通話しながらも溢れんばかりにこぼれていた喜びは、電話を切った後にさらに増した。感情を欠片も隠さず、子供のように破顔させている。
 残り数日で契約の切れるアパート。学生時代から住んでいて多くの時間を共に過ごしてきた場所だ。愛着がないといえば嘘になるが、今はここから出て、新しくスタートを切りたいと思っている。
 その向かい先も心に決めていた。しかしこんなにも、頭の中で組み立てた予定通りにことが進むとは思っていなかった。
 国内唯一であろう、ゲイ専用マンション「イーストフラットキリサワ」は、その道の者たちには有名な場所でもある。
 新卒で勤めたデザイン会社を出てフリーになり、ようやく第一歩を踏み出した自分へのご褒美。そこに住むことは同じ道の人間にはステータスになると同時に、それ以外には当然リスクを背負うことになる。プレッシャーを与える要因でもあるマンションへの引っ越しは、困難な道であると思っていた。しかし、たまたま一室空いてると言われるし、管理人は気さくな雰囲気を声でも醸し出しており、親しみやすい。
 何より、自分を自由に解放できる空間にいられる喜び。あまり深く物事を考えない性格の自分でも、この性癖だけは社会の中で「自由」にできない窮屈な部分だ。
「まじ、ラッキー」
 どうしたら、笑顔以外の表情でいられるのか、教えてほしい。こんな幸運めったにない。
 部屋着で広げていた仕事を置き去りに、ラフな格好に身を包むと家を飛び出した。
 向かうのは――三つ先の駅で降りた東口、徒歩15分ほど。歓楽街を抜けた場所に位置するイーストフラットキリサワ。
 一度だけゲイ専用マンションという空間を見てみたくて、前を通ったことがある。
 そうそう、こういう感じだった。
「綺麗だよな……建て直ししたのかな」
 近づくと開かれる自動ドアをくぐり、もう一つ奥にある扉の前で立ち往生。操作パネルの前に立つが、オートロックのそれをあける術はない。
 管理人室はすぐそこだ。中の様子を窺うことができるが、なにやら数人で話をしていてまったくこちらに気づいてくれていない。
 ピンポーン。
 操作パネルについている「管理人室」のボタンを押した。するとすぐに、こちらに気づいてくれたのか無駄に顔の整った男が二人視線を送ってくる。
「すいません、さっき電話したんですけど」
『ああ! 入居希望のやつな。わりぃ、入ってくれ』
 眼鏡をかけたTシャツ姿の男が返事を返してくれた。開かれたドアの向こうに足を進めて管理人室の前で止まると、中に三人男がいることに気がついた。
 一人は眼鏡の管理人らしき男。一人は気崩したスーツと派手なネクタイが夜の雰囲気を漂わせている男。
 そして、もう一人が。
「わんっ! わんっ!」
 パタパタ尻尾を振ってこちらに熱視線を送ってくる犬を抱えた――金髪碧眼の男。
「うわっ、ちょーかーいー!」
 しかし、彼には金髪も碧眼も目に入らず、一直線に尻尾を振り続ける犬に手を伸ばした。
「うりゃー!」
「きゃんっ、きゃんっ!」
「ははははっ! まじ、かわいーなー、おまえ!」
 勢いに負けた三人は、金髪碧眼から犬を奪った彼をぽかーんと見つめている。
 犬と戯れる彼がそんな三人の様子と場の空気に気づいたのは、一頻り遊び通した後だった。
「……す、すいません、おれ、はしゃいじゃって」
「いや、かまわねーけど。えっと……名前なんつったっけか?」
「春日です。春日恒です」
「俺はここの管理人の桐沢奏だ」
「よろしくお願いしまっす」
「んで、早速でわりーんだけど、ちょっと話し合いに加わってくれるか?」
 はっはっはっ、と呼吸をする犬を抱えた恒は何のことだかわからずに首を傾げる。
 管理人室の中に通されて、紹介されたのは犬の飼い主と思われる金髪碧眼の男だった。
「こいつ、クロードっつってな、住んでたマンション追い出されて住むとこねーらしいんだよ」
「はい」
「んでまあ、うちは今、一室しか空き部屋ねーのな」
「はい」
「お前、その犬好きだろ?」
「はい」
 ここまで言えばなんとなく察してくれるかと期待していた管理人だったが、恒には伝わらず、彼の頭上に疑問符が浮かんでいる。
 奏は小さなため息を漏らしながら、一度、クロードと呼ばれた男を見た。しかし彼が見つめる先は、恒が抱えている犬。奏とは視線が交わらない。
「単刀直入に言うと、入居希望者がかぶっちまったわけな」
「ええ! そうなんですか」
「そうなんだ。まあ、お前の話を何も聞いてねーから、俺もこっちに返事できないでいたんだよ」
「なるほどー」
 事務机の中にしまってあるパイプ椅子を引き出し、他の二人と同じように恒も腰をおろす。自分の視線が下がったところで、クロードと目が合った。
 犬に向けられていたはずのそれが、いつの間にか自分の顔に向けられていて、視線の鋭さにドキッとする。
「ご、ごめんなさい。この子独り占めして」
 犬をずっと抱えたままだったものだから怒られたのだと勘違いした恒は、慌てて犬を差し出した。日本人離れした白い肌に見慣れない碧眼。整いすぎている容姿をさらに良いものに見せているのは、人工的な光の下でさえ輝いて見える金髪のせいだろうか。
 キャンキャン鳴く犬は、どうやら遊んでもらっていると思ったらしく、再び尻尾を振った。
 クロードはそんな子犬を受け取ると、優しい手つきで頭をなでてやっている。凝視する恒の首は、なでる動きに合わせて自然と揺れた。
 絵になるな。
 先ほど恒に向けられたものとはまったく違う柔らかな視線。薄く染まった頬。本当に、犬が好きで仕方がないということが伝わってくる。
「……話、もどすぞー」
「あ、はい! どーぞ」
 とりあえず、と奏は恒に基本情報を聞くことからはじめた。
「春日、歳と仕事は?」
「三十歳のフリーデザイナーです」
「フリー? ってことは家で仕事してんのか」
「これから家で仕事することになります。この前フリーになったばかりで、ちょうどいいからこれを機に引越しもしようと思って」
 奏はおもむろに入居希望表という紙を取り出して、そこになにやら書きこんでいく。
「でもフリーになったばっかでここに住むのは、リスクが高いんじゃないのか?」
 良くも悪くも、噂は立っているこのマンション。
 仕事相手の印象を悪くしてしまう可能性だって大いに考えられる。
 しかし。
「逆だと考えてます。業界にお仲間は多いですから、ステータスです」
「あぁ……なるほど。それで印象強くするってわけか。確かに、一発で覚えてもらえそうなステータスだわな」
 自嘲気味に奏が口にしたことにしゅんとする恒。叱られて耳を垂らす犬のような反応に、奏は吹き出しそうになるがこらえた。
 そして、漏れたのはため息だった。彼の気持ちが強いことが話をしてわかってしまっただけに、入居を断りにくくなってしまったのだ。