E.F.K series

綴る想い、愛をこめて -文目編- 01

 あと一歩。
 踏み出せばそこから新しい人生が待っていると、根拠もなしにいらない期待ばかりが募っている胸が、そこら中に撒き散らす音量でばくばく言っている。
 新しい環境で、新しい日々を歩き出したい。
 いいことなんてほとんどもなかった学生時代を過去に投げ捨てて、ここからやり直すんだ。
「よしっ」
 オートロックの自動ドアに阻まれても屈しない。
 例え開き方のわからない扉でも、怖がらず、恐れず、立ち向かって行くと決めた。
 ピンポーン。
 管理人室に通じるインターフォンを押すと、ガラス張りの部屋からカーテンを開けてひょっこり顔を覗かせる男の姿。
 こちらを確認したのか、はいはい今開ける、なんて軽い声が返ってきて、少々肩の力が抜けた。
「面接のやつだろ」
「あ、はい。そうです」
「入れよ」
 自動ドアが開いて、待ち望んでいた瞬間がやってきた。小綺麗なマンションに足を踏み入れる。
 管理人はエントランス際にある部屋に案内すると、
「まあ、ぶっちゃけ特に話すこともねーんだわ」
「ええっ」

 ここは、国内で唯一であろう、ゲイ専用マンション。
 表向きには、男性のみ入居可能ということになっているが、その道の人間にはとても有名なところだ。
 入居するためには管理人の厳しい面接があって、それをクリアしたとしても一年も二年も待たなければいけないと、専ら噂になっている。
 ゲイにとっては、敷居の高い楽園と囁かれているのに。

「か、管理人さん。それはどういう……」
「ぶっちゃけ、面接とかだりぃから部屋の案内すっか」
 想像とはかけ離れている管理人。
 噂ばかりが先走っている面接という、難所。
「あの、もしかして……家賃が高いと言うのも」
「あー、人によるな。所得によってちげーんだよ。勝手にオーナーが設定してるだけだけどな」
 エレベーターに乗せられて、向かったのは二階の一号室。ドアを開けると、空き部屋とは思えないほど他人の気配を感じさせた。
 しかも、それは嫌悪を呼ぶものではなくて、逆に安堵を運ぶ生活感。なんだか、知っているような……気のせいだろうか。
「お前――あー、名前なんだっけ?」
「山本です」
「ああ、そうだ。山本ふみだ」
 胸が、高鳴った。
 そんな風に自分を呼ぶ人は一人しかいない。
「違いますよ。文に目と書いてあやめ、と読むんです」
 すかさず、訂正。
 あの呼び方――あだ名は、大学時代の親友がつけてくれて、親友だけが呼んでくれた。
 昨日の卒業式以降二度と会うことはないであろう、生まれて初めての親友がくれた、一生なくなることのない贈り物なのだ。
 だから、あの声以外の声では呼ばれたくない。
「珍しい名前だな」
「家が古くからの呉服屋なんです。女みたいで嫌いですよ……こんな名前」
 どうしても隠しておくような器用なことはできなくて、家族にカミングアウトしたあの日。
 息子の性癖を両親は決して理解しようとはしなかった。真っ白い軽蔑の眼差しを向けられ、汚いものを見るかのような明らかな拒絶。
 追い出されるように、自ら逃げるように、遠く離れたこちらの大学に進学した。
「間違っても、したの名前では呼ばないでくださいよ」
「俺は嫌いじゃねーけどな」
「え……」
「可愛い名前でその容姿なら、こっちでは苦労しねーだろ」
 管理人が、口元に意味深な笑みを浮かべる。探るような視線が突き刺さるが、そんなものには慣れている。
 興味を持たれるのは、決して怖いことではない。
 興味を持たれないのも、多少の痛みはあるが面倒がなくていい。
 否定されなければ、何も怖くない。
「試してみます? 一晩限りの恋人さん」
「いーや、やめとく。お前も悪くねーけど、マンションに住む人間とは関わり持ちたくねぇからな」
 ほら。
 彼は否定しない。
 自分の特殊な性癖も、このマンションでは特殊じゃなくて普通なのだ。
 最高の居心地だ。
 部屋も、独りで暮らすにはもったいないぐらいの間取りをしている。
 まさに、申し分ない物件。
「ま、冗談はさておき。今日から好きに住んでいいからな」
「はぁ」
 いろいろ構えてきただけに、拍子抜けしてしまうほどあっさりとした入居受理。嬉しい気持ちももちろんあるのだが、それ以上に戸惑ってしまって「ゆっくりしていけよ」と言ってその場をさった管理人にろくな挨拶も返せなかった。
 まっすぐにリビングまで延びた廊下。その左右に部屋が一つ、バスルームと洗面所が一つ、トイレが一つ。
 リビングは広々としていて、その横にカウンターキッチンが設置されている。日当たりも良好。昼間は電気をつけなくても、リビングで過ごせるだろう。
 自分が今まで持っていた家具では、有り余ってしまう間取りだけれど、これから家具は増やしていけばいい。
「よし」
 しっかりとこれから自分の部屋となる場所をその目に焼き付けて、部屋を後にした。オートロックなので、カギを受け取っていなかったが気にせずエントランスまで降りた。
 すでに戻っている管理人に声をかけた。
「中、見せてもらってありがとうございました」
「おう。荷物運ぶの大変じゃねーか? 引越し屋とかに頼むんなら、適当に住んでるヤツに手伝わせるけど」
「いえ、たいした荷物もないので、大丈夫です。それより、洗濯機とか冷蔵庫とか、備え付けなんですか?」
 部屋の中に残されていた、前の住人が使っている匂いのする家具。
 忘れ物なら引き取って自分がそのまま使いたいところだが、どうなのだろうか。
「前のヤツが置いてったんだ。嫌じゃなきゃそのまま使えよ」
「あ、はい。ありがたく使わせてもらいます」
 そうすると、前の部屋からの荷物もぐっと減るし、何より今まで使っていた家具のほとんどを捨ててきたいと思っていた自分にとっては好都合だ。